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2009年12月17日

100年前は古典派理論が支配的であったのである。これは自由市場は完全雇用に向かうのが『証明』されて自動的に自己調整により自由市場は絶えず完全雇用水準にあるか、たとえ外産ショックによりかく乱されようとも、瞬時に完全雇用水準に回復したのであった。
自由市場の見えざる手の力をマヒさせうる唯一のものは、政府干渉による見える手なのであった。
その後1929~1932にかけて大恐慌が起きて、そして、ジョン・メイナード・ケインズが現れたのであった。
市場にはなんら完全雇用水準に到達する必然性はないことをケインズは『証明』した。
このようにして見えざる手が失脚すると、完全雇用を維持しようとする政府の政策が正当化されたのであった。


憤慨したクルーグマン氏は、ケインズが証明したのはそうしたクラウディングアウト効果(公共投資のためには国債を出す)は完全雇用水準においてのみ起こるのであり、遊休資源が存在する場合には財政出動が景気幼少をもたらすことはなく、金利の急上昇をまねくことはないというものであった、とブログで応酬したのであった。

フルーグマン教授は「笑われは一時的ではあるが骨を折って得た知識が全く忘れ去られているマクロ経済学の暗黒時代に生きているのである」と無学な見解を示したにすぎなかったのであった。
しかし、こうした論争は経済学者と歴史学者との間に限られたことではないのである。
それは新しい古典派とNewケイジニアンといった経済学者間の論争でもあるのだ。
極めて興味深いのはそうした論争がほとんど全く1929~1930年におけるケインズと英国大蔵省との論争の再来であるということなのである。
大蔵省の見解は国債で資金調達する公共投資はその発行額に等しいだけの民間投資を招くに違いないというもの。
ケインズの返答?はもしそうした見解が真実なら、どんな民間投資に関するどんな新たなものでも当てはまることだろうということだった。
ようするに、「現在以上の雇用は決してありえないとする宿命論的信念は全く根拠のないものである」というわけなのである。

英国大蔵省はその後より正当化できる見方へと歩み寄った。
つまり、追加的な財政支出の危険性は資源に関する“物理的な”クラウディング・アウト効果にあるのではなく、“心理的な”クラウディング・アウト効果にあると主張するようになったのである。
もし政府の支払い能力に対する懸念が生ずると、クルーグマン教授も認めているが、資本逃避が生じ、政府借入コストが上昇しかねないのである。

われわれは何度も同じ議論を蒸し返す運命にあるのだろうか。
私はまさにこの論争においてクルーグマン教授を支持しているのであるが、ファーガマン教授の研究を否定して、それを経済学におけるプロギストン説とするのには同意しないのである。
それは経済学を?って自然科学のことと捉えることになる。ケインズは経済を自然科学とは決して考えなかったのである。
というのは、経済学が扱う対象の内容が経時的にかなり変化しやすいと考えたからであった。

異なる時代には異なる経済モデルが必要であるというのがケインズの論だった。
ケインズ著『雇用・利子および貨幣の一般理論』の優れた点は、さまざまな状況に対応できる多様なモデルを数々手強できるほど一般的である点であった。
市場は古典派や新しい古典派が記述しているように機能するかもしれないが、そうした必然性はないのである。
したがって重要なのは、誤った対応をしないように用心するということであった。
究極的にはケインズ革命は不十分な科学研究に勝る優れた科学研究の勝利なのではなく、誤った判断に対する優れた判断の勝利なのであった。
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